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京都学園大学人文学部歴史文化学科民俗学コース
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写真の文字はきっと亀岡のことについて書かれていると思う。または大本教についても?

天恩郷
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本能寺より下位の寺院→寺の大きさは位によって違う。
女人禁制

本門寺
  天満宮。先輩が全国的にも珍しい石でできた亀の絵馬と言われていたが、亀はわかるとして、なぜ石でそれを造ったのか、写真には写ってないが、両脇には黒い牛の絵馬が左に、白い馬の絵馬が右にある。わざわざ石で造る理由は何だったのだろうか?

伝和泉式部之墓。伝であるから、確実ではない。嘘っぱちの可能性も。
高さ150㎝。制作年代は不明。小泉村清泉寺より移転された。
 1686年12月4日に火災に遭い和泉式部→泉→水を連想されるもの として、水に関連したものを備えることで二度と大火に見舞われないようにしたのでは、と伝えられている。
 火から身を守るご利益があるほか、和泉式部が恋多き女性であったことから、縁結び、恋愛成就のご利益もいただけるようだ。歌舞の菩薩となって現れる和泉式部の謡曲から生まれた信仰から芸道上達のご利益も。
 どちらにせよ「伝」であるので、どこまで正確かはわかりかねる。

稱名寺
傷薬や胃薬になるような薬草から、火がつきにくい材質の木もあった。二本には自生しない植物もあり、わざわざ取り寄せたのだろうか?こういう植物の研究は亀山城では盛んだったのか。当寺には広く知れ渡っていたことなのか。城の敷地内で薬草を育てることは一般的だったのか。こういうものは城の外から仕入れていると思っていたから、城というのは色々な面に備えているのだと感じた。
 高校までの授業では、歴史的敗者については詳しく教わらないことが多い。その敗者についてを地元民や研究している人から聞くというのは新鮮だった。明智光秀の優秀だった部分、地元民から好かれていたと聞いて、光秀をより身近に、リアルに感じた。実際にものを見るだけでなく、直に話が聞けるのが、座学の授業と違って面白い。
私は、今回のフィールドワークにおいて古世地蔵堂にもっとも関心を抱いた。古世地蔵堂には、矢ノ根地蔵という弓矢を持った地蔵が祀られているという。なぜ弓矢を持っているのかというと、源頼政が鵺という怪物を退治した際に、弓矢を使ったという。矢ノ根地蔵はその頼政の守り本尊であったため、それにちなみ弓矢を持たせたそうだ。
 以前、鍬山神社の宮司に話しをうかがう機会があり、その時に鵺についての話を聞いていた。それは、鍬山神社の境内に鵺を葬った鵺塚なるものがあるという。鵺塚といえば、兵庫県芦屋市、大阪市都島区が有名であるが、ここ亀岡にも鵺塚、矢ノ根地蔵、頼政塚などの鵺、頼政ゆかりのある場所があるというのが、非常に興味深く、また、芦屋、大阪、亀岡など平安京から見て西側の、鵺をうつぼ舟で流した方面にあるというのも何か意味のあるように感じられる。
鵺退治に帝がわざわざ指名され、討った功として刀と領地を下賜されたという頼政の家にあった地蔵を祀ったもの。鵺退治の際に祈願した地蔵を守本尊にしたので、現存しているのが凄いと思った。
 
2017年5月13日実践プロジェクトAとして実施。印象に残った光景についてのコメントを発表。
復元された天守石垣の写真を選びました。穴太積みになっている石垣は見上げるほどであり、当時の亀山城の大きさを実感しました。しかし、この立派な石垣は一度壊されており、上の半分以上は戦後に修復されたらしいので、築城時に使われた石ではないそうです。写真の石垣の三分の一ほどの下の部分だけは、光秀公築城当時のものが奇跡的に残っています。この石垣のとなりには階段がありましたが、上の方は禁足地であり、進入禁止になっていました。神聖な場所なので入ってはいけないのは、仕方がありませんが、何があるのかを調べてみたいと思います。
 亀山城の石垣の下側三分の一が光秀の時代の石垣だそうで、それが残っているという話しを聞いて、今現在まで残っているのは本当に奇跡だと思うし、また後に積み直された石垣も、一つ一つ手作業だということで、亀山城というお城は、たくさん傷ついた分、たくさん助けられているんだな、と思いました。
 色々と城下町の名残が散見されてとても興味深かったです。なかでも、ふと気になったものは、石垣の所々に存在した、ギザギザの跡でした。石切場から切り出す際か、運搬する際についたものかな、と思いました。他には堀の跡を手洗い場として残している場所などが、とても印象的でした。
 明治六年に廃城令が公布され、その後、再建されるが、昭和十年には政府による弾圧で、亀山城は破壊された。しかしその後、亀山城再建を願う地元の人達がいた。子どものころに亀山城で遊んだりしていたときの思い出があった。地元の人達に大事にされている場所なんだなと感じた。

 蛭子山の隣に愛宕山
 愛宕山とは何?ろうそくが中に入っていて、正面むかって左側面は三日月形、右側面が円(太陽?)。蛭子山の前が愛宕山?

愛宕灯籠

旅籠町
 フィールドワークの際に通った。この道が旧山陰道だったために、昔は宿がたくさん並んでいたのかと考えた。

 古世地蔵堂のお堂の前にある長方形の石である。四面のそれぞれに地名が示されている。正面から見ると、図のように書いてあるように見える。能勢妙見(のせみょうけん)は亀岡の近くの山であり、おそらく、山中の寺である。
 江戸時代の道標が境内に残されている。右に向かっても穴太寺にはたどりつけない。学芸員さんに聞いたところ、保護のために残してあり、亀岡の城下町には未だ多く残っているそうだ。確かにこの道が多くの人に使われていたのだという痕跡を感じることができた。
(この石碑は、寺の人が作ったのか、それとも地域の人か、あるいは藩が設置を命じたのか、より良い町にするとりくみを行ったのは誰なのだろうか)
古世(こせ)地蔵堂
 平安時代の武将源頼政の守本尊を祀る。平家物語によると、頼政は、禁裏(内裏)に夜な夜な現れる鵺と呼ばれる化け物の退治を帝に命じられる。頼政は警護に向かう際に、代々家に伝わるこの地蔵に、願掛けをしたことで鵺を退治することができ、褒美として師子王という刀と領地をもらい、その領地は矢代荘と呼ばれるようになった。この話により、古世地蔵は、通常右手に錫を持っているところを、頼政の功績から矢を持った姿になったとされるが、今回は見ることができなかった。
 興味を持った場所は古世地蔵堂です。もともと鵺に悩まされていた帝がおり、武将が鵺を倒したという話しは知っていたのですが、その武将が源頼政であり、功績で師子王を賜ったことは今日初めて知りました。また、その話だけで終わっているのではなく、関連する場所が実際にあることも、初めて知りました。
 ただ、私が地蔵に詳しくないというのと、持たせている意味が違うと思うのですが、地蔵に矢を持たせるというのは、武器を持たせることになるのでは、それはいいのか、というのを少し思ってしまいます。地蔵に対しては、何となく、守ってくれるものというイメージがあるので、何かしらを倒す矢を持たせるということに興味がでました。
 別の写真ですが、稲荷山の説明の近くに旅籠町とあったので、昔、宿が多いあたりだったのだろうかと、気になりました。

大本教の神紋。
 話していただいた中には入ってはいないものだが、私はこの神紋が気になった。ぱっと見は九曜紋なのだが、よく見ると九曜ではなく十曜になっていた。千葉氏一族や伊東家の用いた満月に九曜と同様の紋を用いたのだろうか。しかし神道ならば九曜を用いそうだと自分は思う。それに十曜自体あまり見ることがない。そのため、なぜ九曜ではなく十曜を神紋として用いたのかが気になった。
選んだ写真はこの写真です。この写真の撮影場所は、亀山城本丸跡の3つの禁足地の内のまん中の禁足地手前です。なぜこの写真を選んだかというと、この頭のとれた仏像が視覚的にインパクトが有り、見てまわった中で一番わかりやすい、戦前の弾圧の象徴に思えたからです。疑問点としては、なぜ頭のみ破壊されているのか、なぜ体は無傷なのかが気になります。
  今回選んだ一枚は亀山城跡地にあった頭の欠けたご本尊です。この本尊の頭が欠けている原因としては、1936年に起こった大本弾圧事件の際に頭の部分が破壊されたのだと思われます。
 石垣の3段目より上は再修復されたものなので、この本尊も修復されて置いてあるのでしょう。
亀山城本丸の石垣(廃 城令、弾圧により破壊された石垣であり)。明智光秀が丹波平定のために築いた城で、光秀が亡くなった後、城主が転々とした後に藤堂高虎により五層の城となった。今の石垣の3分の1が明智光秀の時代につまれた石で、光秀を愛する人々によって石垣が再度つまれました。
 天守閣の石垣(亀山城の跡地)
話しでは一回壊された石垣で、組み直したと聞きました。石は大きさや形がさまざまあります。復元するときにどうやって組み立てたのか、何をもとに復元したのか。
  石垣に興味を持ちました。石垣から攻めようとする人への対策などいろいろ創意工夫されていて感心しました。石垣にも違う積み方などがあると知りました。今回は亀山城の石垣を見ただけなので、違うお城の石垣も見て、調べてみたいと思いました。
  復元された亀山城の石垣の写真を選びました。理由は、石垣再建の話を聞いて、素直にすごいと思ったからです。ただでさえ、大変な作業なのに、機械はなく、人力で行っていたのだと聞いて、この時代じゃ考えられないと思いました。だからとても大変な作業だと分っていても、荒れた亀山城石垣を復元しようとがんばった人達を尊敬します。
  なぜ、この写真が気になったのかという理由は、大本教が所有している亀山城址の石垣が、戦前の政府による弾圧で、一度は破壊されたものの、敗戦後物資が不足する中で、破壊される前の状態へと修復されたということが、とても凄いと思ったからです。
実践プロジェクトAとして城下町フィールドワークがよみがえりました。以下学生諸君のレポートです。
 
 エスペラント語の世界共通で、どこの国の人でもネイティブとかはなく、初心者でも上級者でも関係なく話せるところに惹かれました。1つの神、1つの世界、1つの言葉、これには宗教と宗教が共存し、人と人が差別することない平和な世界の実現に対する思いがこめられているという。

大本にあった石碑のエスペラント語が一番印象に残りました。説明を聞いた時に「ネイティブの人がいなく、皆が平等に話せる人工言語、初心者でも上級者の人と対等に話ができる」ということを聞いた時に、とてもいい言語だと思いました。基本的に大本にあった展示品や石垣など、興味を惹かれる物ばかりでとてもよかった。中でもこのエスペラント語にはとても惹かれました。
私が一番印象に残ったのは、石垣に刻まれた刻印です。築城する際に刻まれたものが今でも残っているのはすごいと思いました。刻印の種類で誰のものか分からないのが少し残念だと思いました。しかし、この上にお城があったと思うとすごいと感じました。
 写真で見るのとは違い、思ったより石が大きく、高くて下から見上げた時に迫力を感じたから。昔の人は機械がなく、手作業で積み上げたり、運んだりしていたと思うと、多くの労力と時間がかかっているんだなと思った。
 亀山城といえば、と聞かれると、この刻印が石を運搬したことを示すために刻んだものだ、という事を伝えるためです。それに、他の城にはなかなかないものだと思いました。
 石垣に刻まれた刻印がこんなにくっきり残っていることがすごいと思った。
ここは霊場みたいな所です。全国からの石を集めたとても神聖な場所。私がここを好きな理由は、ここが平安と豊穣を祈る所だからです。平安と豊饒は一番大切です。
 天恩郷の大銀杏 大本弾圧事件の時に、大本の建物は全て破壊されたが、この銀杏の木は明智光秀が植樹したという理由で、破却が免れたとのことです。樹齢が四百年ということでとても強い木だと思い、この写真にしました。
 水は人が生きるのに必要不可欠なもの。この井戸はかなり古いとの事だったので、もしかしたら明智光秀から松平信正の代までこの亀山城を支えてきた縁の下の力持ちだったかもしれない。
 大本天恩郷の木々。亀岡の名木となっている大銀杏や自然に魅せられました。秋の情景を大切にしていきたいという当時の出口直日の想いが現代にまで継がれている。物や建物がひしめく現代。秋の銀杏だけでなく、桜や椿等の季節の花々を未来永劫守っていかなくてはならないという気持ちがより一層強まりました。
自分の知らない寺で、少なからず本能寺が関わっていることに興味をひかれこれにしました。自分の暇があれば、もう一度ゆっくり見てみたいと思います。
 私が興味を持ったのは亀岡祭で使われる山鉾です。蛭子山の写真を選んだ理由は、この蔵にしまわれている山鉾には、三人のオランダ人が描かれた幕が張ってあって、山鉾の中でも高額なものだという説明を聞いて、どんな山鉾なのかと興味を持ち、亀岡祭で実際に山鉾を見るのが楽しみになったので、この写真を選びました。
 私が選んだのは蛭子山の写真です。大阪出身の私にとってはすごく親しみのある名前だなと勝手に思っていました。大阪ではえべっさんと呼ばれ、祀っている神社も多くあるので気になりました。一番印象に残ったので選びました。
この写真は本門寺近くの住宅街です。私の住んでいた沖縄と全く違う和の雰囲気だったし、沖縄は赤瓦の屋根やコンクリート造りの家が多く、日本家屋は少なかったので、珍しいと思い選びました。
 今日は亀岡市の過去の地図と写真を見て、歴史と文化がとても長いと思いました。いろいろな見学が終ったら、豊富な文化と歴史を研究したい。
 この堀は、亀山城のお堀で、敵に攻められた際に保津川をせき止めると、大きな堀になったそうで、亀岡の地形を利用した造りになっていて当時の人々の知恵を感じました。水が張ると瓶に見えたそうです。内堀で現在、植物園のある場所には、火薬庫があったそうです。
 なぜこの写真を選んだのかというと、自分は書道をしていて、字には興味があり印象的な字だと思い選びました。特に石のことは分からないのですが、石にこんな字が書けるのかと思いました。
新入生の城下町フィールドワークが「亀岡市民新聞」の記事になりました。
こちら
pen.jpg
026c7a0a.jpeg亀山城跡の中の島
過去に火薬庫があった場所で、周囲を堀で囲われ
水が流れているため、島状になっている。
このことから、火薬に誤って火がついても
被害を少なくし、対応しやすくなっていることがわかる。
また水の量を多くして、沈めることができるようになっていた。





272c5fbe.jpeg僕は昔からあるものに興味がありまして、
ちょっと見にくいかも知れませんが、奥に写っています。
亀山城内にある古井戸の写真です。
今は使われていないようですが、亀山城破却前からあるそうです。
ちなみに城内の水源はもちろん、ここら辺一帯の
池、湖、井戸はどの水源も湧き水で、
400年前から一度も枯れたことがないそうです。
 
886f4e5b.jpegこの階段から先は、禁足地、聖域ということで選びました。
個人的には、禁足地というのは厳かな雰囲気を感じます。






7c915602.jpeg私が天恩郷の写真を選んだ理由は
単純に天恩郷の自然崇拝な考えが
興味深いと思ったからです。
「人は生かされている」という考えは
日本で仏経よりも昔からある考えで
以前から興味があったので
コレを選びました。
 
a19b4e0f.jpeg私は古世地蔵を選びました。
源頼政が鵺退治の時に枕元に出て来たお地蔵さまを祀った所です。
平家物語がもともと好きだったが
実際に物語に出てくる所が実在すると思ってなかたので
すごく印象に残っています。
これを機に、他の物語に出てくるような所にも行ってみたいと思いました。





4b85076a.jpeg源頼政が鵺を退治する願かけとして祀られた地蔵。
弓を持っている。
平氏と戦ったことで有名な頼政さえ鵺を退治する願かけを
するということは、どんな強い人でもそれほど恐怖を感じていたのでは
と思う。化物が怖いと感じるのは今も昔も変わらないと思わされた。
 
9fc9da3a.jpeg静岡出身である為、秋葉神社には興味を惹かれる。
東京の秋葉原という地名も、焼け野原に秋葉さんを
祀ったのが由来であるそう。
青山忠重は当時火災が多発していた亀山城下を
守る為に遠江国で信仰されていた秋葉三尺坊を
勧請したそう。

04eb4804.jpeg秋葉神社です。どういった理由で秋葉三尺坊を防火の神として
あがめられるようになったのか、青山下野守忠重がどうして
転封されることになったのかが、気になりました。






1018ffe6.jpeg秋葉神社の奥にあった鳥居の一部と思われる石です。
誰が見ても『神社』とわかるような象徴的な存在である
鳥居ですが、写真のものはおそらく役目を終えたであろう
鳥居だと思われ、そんな鳥居に対して
「お疲れさまでした」という気持ちを込めて、
失礼ながら勝手に一枚撮影させていただきました。
 
e704772f.jpeg初めてのフィールドワークという事でかなり楽しみにしていました。
天気が悪いのが少し残念でした。
見て回った中で一番興味深かったのは浦島山です。
御神体が浦島太郎とのことで意外でした。




660aada0.jpeg天満宮の写真です。
石でできた亀の絵馬が奉納された経緯や
その絵馬に込められた意味などを
いつか調べたいと思いました。







9e75d392.jpeg京都市内には来たの天満宮があり、中に牛の置物があって
頭をなでると賢くなると言われ、たくさんの受験生の味方になっていました。
城下町の天満宮には牛がいない!
同じ菅原道真公を祀っているのになぜだろうと思いました。
しかしここの天満宮には珍しい絵馬が奉納されていました。
石でできた亀をあしらった絵馬というのは見たことがなかったので
すごく興味深い絵馬でした。
亀岡城下町散策マップには、明治初年に寺が廃止されたと書いてあるので
元がどんな形だったのかなどは分りませんが、近くに土居があったので、古くから城下町を見守っていたのだと感じました。
 


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京都学園大学
人間文化学部
歴史民俗学専攻の活動の模様をお伝えします。
受験生、在学生のご家族の方、関係者の皆様にも楽しんでいただければ幸いです。