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京都学園大学人文学部歴史文化学科民俗学コース
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2017年5月24日保津川エコツアー開始 - Spherical Image - RICOH THETA


2017年5月24日保津川エコツアー開始
保津川流域のゴミを拾って行きます - Spherical Image - RICOH THETA


保津川流域のゴミを拾って行きます
曳舟体験。昔は舟を人力で上流まで曳いて戻っていた。 - Spherical Image - RICOH
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曳舟体験。昔は舟を人力で上流まで曳いて戻っていた。
保津峡を開削した角倉了以が祀られている千光寺で、住職の話を聞く。 - Spherical Image - RICOH THETA
保津峡を開削した角倉了以が祀られている千光寺で、住職の話を聞く。
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写真の文字はきっと亀岡のことについて書かれていると思う。または大本教についても?

天恩郷
 
本能寺より下位の寺院→寺の大きさは位によって違う。
女人禁制

本門寺
  天満宮。先輩が全国的にも珍しい石でできた亀の絵馬と言われていたが、亀はわかるとして、なぜ石でそれを造ったのか、写真には写ってないが、両脇には黒い牛の絵馬が左に、白い馬の絵馬が右にある。わざわざ石で造る理由は何だったのだろうか?

伝和泉式部之墓。伝であるから、確実ではない。嘘っぱちの可能性も。
高さ150㎝。制作年代は不明。小泉村清泉寺より移転された。
 1686年12月4日に火災に遭い和泉式部→泉→水を連想されるもの として、水に関連したものを備えることで二度と大火に見舞われないようにしたのでは、と伝えられている。
 火から身を守るご利益があるほか、和泉式部が恋多き女性であったことから、縁結び、恋愛成就のご利益もいただけるようだ。歌舞の菩薩となって現れる和泉式部の謡曲から生まれた信仰から芸道上達のご利益も。
 どちらにせよ「伝」であるので、どこまで正確かはわかりかねる。

稱名寺
傷薬や胃薬になるような薬草から、火がつきにくい材質の木もあった。二本には自生しない植物もあり、わざわざ取り寄せたのだろうか?こういう植物の研究は亀山城では盛んだったのか。当寺には広く知れ渡っていたことなのか。城の敷地内で薬草を育てることは一般的だったのか。こういうものは城の外から仕入れていると思っていたから、城というのは色々な面に備えているのだと感じた。
 高校までの授業では、歴史的敗者については詳しく教わらないことが多い。その敗者についてを地元民や研究している人から聞くというのは新鮮だった。明智光秀の優秀だった部分、地元民から好かれていたと聞いて、光秀をより身近に、リアルに感じた。実際にものを見るだけでなく、直に話が聞けるのが、座学の授業と違って面白い。
私は、今回のフィールドワークにおいて古世地蔵堂にもっとも関心を抱いた。古世地蔵堂には、矢ノ根地蔵という弓矢を持った地蔵が祀られているという。なぜ弓矢を持っているのかというと、源頼政が鵺という怪物を退治した際に、弓矢を使ったという。矢ノ根地蔵はその頼政の守り本尊であったため、それにちなみ弓矢を持たせたそうだ。
 以前、鍬山神社の宮司に話しをうかがう機会があり、その時に鵺についての話を聞いていた。それは、鍬山神社の境内に鵺を葬った鵺塚なるものがあるという。鵺塚といえば、兵庫県芦屋市、大阪市都島区が有名であるが、ここ亀岡にも鵺塚、矢ノ根地蔵、頼政塚などの鵺、頼政ゆかりのある場所があるというのが、非常に興味深く、また、芦屋、大阪、亀岡など平安京から見て西側の、鵺をうつぼ舟で流した方面にあるというのも何か意味のあるように感じられる。
鵺退治に帝がわざわざ指名され、討った功として刀と領地を下賜されたという頼政の家にあった地蔵を祀ったもの。鵺退治の際に祈願した地蔵を守本尊にしたので、現存しているのが凄いと思った。
 
写真は丹波亀山城の堀の一部を、市民の手や野菜の洗い場にした所で、元は城の堀だったのを再活用しているのを見ると、また違う歴史を感じました。
 堀の跡を市民の水洗い場にしており、今でも、別の形ではあるが利用されていて、亀岡城は亀岡に住む人にとって親しみやすく敬われていることが感じられた。今も残る使われなくなった、お城の堀を上手く再利用されていて、歴史的なものを保全するにおいても良い効果を果たしているなと思ったし、保全の手段として別の形で再び利用することも、一つの保全手段として良いなと思った。
2017年5月13日実践プロジェクトAとして実施。印象に残った光景についてのコメントを発表。
復元された天守石垣の写真を選びました。穴太積みになっている石垣は見上げるほどであり、当時の亀山城の大きさを実感しました。しかし、この立派な石垣は一度壊されており、上の半分以上は戦後に修復されたらしいので、築城時に使われた石ではないそうです。写真の石垣の三分の一ほどの下の部分だけは、光秀公築城当時のものが奇跡的に残っています。この石垣のとなりには階段がありましたが、上の方は禁足地であり、進入禁止になっていました。神聖な場所なので入ってはいけないのは、仕方がありませんが、何があるのかを調べてみたいと思います。
 亀山城の石垣の下側三分の一が光秀の時代の石垣だそうで、それが残っているという話しを聞いて、今現在まで残っているのは本当に奇跡だと思うし、また後に積み直された石垣も、一つ一つ手作業だということで、亀山城というお城は、たくさん傷ついた分、たくさん助けられているんだな、と思いました。
 色々と城下町の名残が散見されてとても興味深かったです。なかでも、ふと気になったものは、石垣の所々に存在した、ギザギザの跡でした。石切場から切り出す際か、運搬する際についたものかな、と思いました。他には堀の跡を手洗い場として残している場所などが、とても印象的でした。
 明治六年に廃城令が公布され、その後、再建されるが、昭和十年には政府による弾圧で、亀山城は破壊された。しかしその後、亀山城再建を願う地元の人達がいた。子どものころに亀山城で遊んだりしていたときの思い出があった。地元の人達に大事にされている場所なんだなと感じた。


『日本民俗学』第287号に手塚先生編著の『京の筏』書評が掲載されました。
     
上左から翁山、難波山、浦島山、稲荷山、蛭子山、八幡山の学生諸君の活躍です。もちろん羽衣山、三輪山、高砂山、武内山、鍬山の諸君も忘れていません。シャッターチャンスがなかっただけですので。

    
妖怪の事を調べに、公文国際学園中等部の25名の生徒たちが訪れて、民俗学コースの学生たちと意見を交わしました。以下があらかじめ用意してこられたテーマでした。あなたでしたら、どう答えますか?
1.昔と現代のそれぞれにおける妖怪の存在意義
2.時代の流れによる妖怪の変化について
3.妖怪と地域の文化の関係性
4.妖怪の概念

京都学園大学の歴史文化学科民俗学コースは、2005年に日本で唯一の講義「妖怪文化論」を、妖怪研究の第一人者である小松和彦先生をお迎えして開講し、今年で12年目になりました。また、東京で妖怪文化研究の成果を知っていただくためのシンポジウムを7年間続けて来ました。今年は、NPO語りと方言の会の協力を得て福島で開催します。

6月18日14名程で、大阪日本橋、国立文楽劇場で行われた文楽若手会公演に行きました。
桐竹紋臣さんの案内で楽屋や舞台見学までできました。
     
アルバムはこちら
2016年5月25日、保津川を清掃したり、船曳体験をしたり、保津川開削の角倉了以ゆかりの大悲閣千光寺を訪れたりして学びました。

 アルバムはこちら
動画はLIVE保津川で見られます。保津川下り船頭さんのブログはこちら
4月20日 滝澤、中田、谷津
     27日 光永、老後、守山
5月11日 樺澤、趙、滋野
      18日 村瀬、小柳、川崎
6月1日     勝谷、山崎、西澤
  8日 平岡、柳、滝澤
     15日 中田、谷津、光永
   22日 老後、守山、樺澤
   29日 滋野、趙、村瀬
7月6日   小柳、川崎、勝谷
      13日 山崎、西澤、平岡、柳
  20日
  27日    中間発表
 『京の筏 コモンズとしての保津川』ナカニシヤ出版
手塚先生編、鍛冶屋倶楽部も書いてます。
京都新聞の紹介記事 
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 蛭子山の隣に愛宕山
 愛宕山とは何?ろうそくが中に入っていて、正面むかって左側面は三日月形、右側面が円(太陽?)。蛭子山の前が愛宕山?

愛宕灯籠

旅籠町
 フィールドワークの際に通った。この道が旧山陰道だったために、昔は宿がたくさん並んでいたのかと考えた。

 古世地蔵堂のお堂の前にある長方形の石である。四面のそれぞれに地名が示されている。正面から見ると、図のように書いてあるように見える。能勢妙見(のせみょうけん)は亀岡の近くの山であり、おそらく、山中の寺である。
 江戸時代の道標が境内に残されている。右に向かっても穴太寺にはたどりつけない。学芸員さんに聞いたところ、保護のために残してあり、亀岡の城下町には未だ多く残っているそうだ。確かにこの道が多くの人に使われていたのだという痕跡を感じることができた。
(この石碑は、寺の人が作ったのか、それとも地域の人か、あるいは藩が設置を命じたのか、より良い町にするとりくみを行ったのは誰なのだろうか)
古世(こせ)地蔵堂
 平安時代の武将源頼政の守本尊を祀る。平家物語によると、頼政は、禁裏(内裏)に夜な夜な現れる鵺と呼ばれる化け物の退治を帝に命じられる。頼政は警護に向かう際に、代々家に伝わるこの地蔵に、願掛けをしたことで鵺を退治することができ、褒美として師子王という刀と領地をもらい、その領地は矢代荘と呼ばれるようになった。この話により、古世地蔵は、通常右手に錫を持っているところを、頼政の功績から矢を持った姿になったとされるが、今回は見ることができなかった。
 興味を持った場所は古世地蔵堂です。もともと鵺に悩まされていた帝がおり、武将が鵺を倒したという話しは知っていたのですが、その武将が源頼政であり、功績で師子王を賜ったことは今日初めて知りました。また、その話だけで終わっているのではなく、関連する場所が実際にあることも、初めて知りました。
 ただ、私が地蔵に詳しくないというのと、持たせている意味が違うと思うのですが、地蔵に矢を持たせるというのは、武器を持たせることになるのでは、それはいいのか、というのを少し思ってしまいます。地蔵に対しては、何となく、守ってくれるものというイメージがあるので、何かしらを倒す矢を持たせるということに興味がでました。
 別の写真ですが、稲荷山の説明の近くに旅籠町とあったので、昔、宿が多いあたりだったのだろうかと、気になりました。

大本教の神紋。
 話していただいた中には入ってはいないものだが、私はこの神紋が気になった。ぱっと見は九曜紋なのだが、よく見ると九曜ではなく十曜になっていた。千葉氏一族や伊東家の用いた満月に九曜と同様の紋を用いたのだろうか。しかし神道ならば九曜を用いそうだと自分は思う。それに十曜自体あまり見ることがない。そのため、なぜ九曜ではなく十曜を神紋として用いたのかが気になった。
選んだ写真はこの写真です。この写真の撮影場所は、亀山城本丸跡の3つの禁足地の内のまん中の禁足地手前です。なぜこの写真を選んだかというと、この頭のとれた仏像が視覚的にインパクトが有り、見てまわった中で一番わかりやすい、戦前の弾圧の象徴に思えたからです。疑問点としては、なぜ頭のみ破壊されているのか、なぜ体は無傷なのかが気になります。
  今回選んだ一枚は亀山城跡地にあった頭の欠けたご本尊です。この本尊の頭が欠けている原因としては、1936年に起こった大本弾圧事件の際に頭の部分が破壊されたのだと思われます。
 石垣の3段目より上は再修復されたものなので、この本尊も修復されて置いてあるのでしょう。
亀山城本丸の石垣(廃 城令、弾圧により破壊された石垣であり)。明智光秀が丹波平定のために築いた城で、光秀が亡くなった後、城主が転々とした後に藤堂高虎により五層の城となった。今の石垣の3分の1が明智光秀の時代につまれた石で、光秀を愛する人々によって石垣が再度つまれました。
 天守閣の石垣(亀山城の跡地)
話しでは一回壊された石垣で、組み直したと聞きました。石は大きさや形がさまざまあります。復元するときにどうやって組み立てたのか、何をもとに復元したのか。
  石垣に興味を持ちました。石垣から攻めようとする人への対策などいろいろ創意工夫されていて感心しました。石垣にも違う積み方などがあると知りました。今回は亀山城の石垣を見ただけなので、違うお城の石垣も見て、調べてみたいと思いました。
  復元された亀山城の石垣の写真を選びました。理由は、石垣再建の話を聞いて、素直にすごいと思ったからです。ただでさえ、大変な作業なのに、機械はなく、人力で行っていたのだと聞いて、この時代じゃ考えられないと思いました。だからとても大変な作業だと分っていても、荒れた亀山城石垣を復元しようとがんばった人達を尊敬します。
  なぜ、この写真が気になったのかという理由は、大本教が所有している亀山城址の石垣が、戦前の政府による弾圧で、一度は破壊されたものの、敗戦後物資が不足する中で、破壊される前の状態へと修復されたということが、とても凄いと思ったからです。


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歴史民俗学専攻の活動の模様をお伝えします。
受験生、在学生のご家族の方、関係者の皆様にも楽しんでいただければ幸いです。